内田秀五郎のしごと

 

ページ番号1073409  更新日 令和5年4月1日 印刷 

杉並の発展の基礎を築いた郷土の偉人

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内田 秀五郎(うちだ・ひでごろう)は上井草村に明治9年(1876年)に生まれました。明治40年(1907年)5月、30歳という日本一の若さで井荻村長に就任。後に町長となり、昭和3年まで務めました。他にも、府会議員(後に都議会議員)、都議会議長などの政治活動や都農業会会長、全国農業委員会協議会会長、東京青果協会会長などの農業分野と多くの役職を務めました。

この間の功績として、道路や街路灯、水道の敷設、駅の誘致など都市基盤の整備の他、農業、教育、経済、産業、など幅広い分野の発展に貢献しました。

特に井荻村で行われた土地区画整理事業は、村長だった秀五郎が中心となって、村全域を対象とし計画されました。秀五郎は近い将来の都市化を見越して区画整理の必要性を説き、大正14年(1925年)9月に「井荻村土地区画整理組合」を設立。反対派を説得のうえ、昭和10年(1935年)、約10年間をかけて事業を完了しました。この時の整理総面積は約880ヘクタール余りに及び、単一町村独自で行った事業としては、全国屈指の大規模なものでした。

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善福寺公園の銅像と石碑
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大東京区域図(1932年10月)における旧井荻町の
位置(出典:『日本の都市再開発』の挿図に加筆)

大規模な土地区画整理事業

区画整理前後の地図

秀五郎らが行った土地区画整理事業は、井荻村(町)全域に及び、第一~第八工区に分けられていました。第八工区の事業が終了したのは、昭和10年(1935年)1月でした。

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区画整理直前(明治期)
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整理後(現在)

耕地整理・区画整理による道づくり

土地区画整理事業により、曲がりくねった道は整理された道へと変わっていき、現在に引き継がれています。

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区画整理直後
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現在(令和4年)

区画整理事業後の当時の様子

道が荒れ、雨のぬかるみで農産物の出荷も大変であった当時、秀五郎は修繕を重ねる中で道の重要性を感じていました。西荻窪駅の開業で道路整備の機運は高まりましたが、耕地が減少するため反対者も少なくありませんでした。しかし、信念を持ち、時には夜明かしで話し合いを重ねることで仲間を増やし、それまで反対していた地域も参加して整備を実現しました。

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区画整理直後の第三工区(現在の善福寺~上井草)
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区画整理直後の第八工区(現在の西荻北~西荻南)

善福寺池と風致地区の指定

土地区画整理事業が進む昭和5年(1930年)に善福寺池を中心とした60.4ヘクタールが風致地区に指定されました。秀五郎ら善福寺風致会は府との共同で、水面の浚渫と拡大、遊歩道の整備など、公園的整備を積極的に行いました。善福寺公園は、昭和36年(1961年)に開設されています。

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当時(昭和12年(1937年))の善福寺公園
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現在の善福寺公園

秀五郎の生涯と、その功績

内田秀五郎 略年譜
内容
明治9年(1876年) 11月1日、上井草村に父・藤吉、母・トリの長男として誕生
16年(1883年) 桃井第一小学校の前身である第一大学区東京府管内第三中学区上井草村第二十六番小学公立桃井学校に入学
22年(1889年) 町村制が制定され、上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併し、井荻村となる
24年(1891年) 学校を卒業、農業を手伝いながら勉学に励む
30年(1897年) 父の藤吉が没し、21歳で家督を継ぐ。
38年(1905年) 28歳で井荻村の収入役となる
40年(1907年) 30歳で井荻村長に就任、当時で日本一若い村長となる
井荻村農会長に就任(農会長時代に村内5カ所に農研究のための試作場を設立)
41年(1908年) 農家に貯金を励行するため、井荻村勤儉貯金組合設立
43年(1910年) 28名の有志により、第一井荻信用購買販売組合を設立
44年(1911年) 井荻村教育会設立、会長となる
45年(1912年) 井荻村慈善会を立ち上げ、病気で生活が苦しくなった方や災害で親を亡くした孤児のための救済事業を行う
大正7年(1918年) 井荻信用購買販売利用組合を設立(後の東邦信用金庫、現在の西武信用金庫)
8年(1919年)

道路法が発布施行
管内全道路の実測を行い、203路線を町村道に認定(この頃に「道路村長」と呼ばれる)

10年(1921年) 東京電灯株式会社と交渉し、村内全域に電灯を敷設させ、近隣の村に先駆けて村中を明るくした
11年(1922年) 新駅設置の活動を行い、西荻窪駅を誘致する
西荻窪駅に通じる道路の開墾を目的として、井荻村第一耕地整理組合創立
13年(1924年) 東京府会議員に当選
中島飛行機東京工場を誘致、4つの環境保護条件を提示する
14年(1925年) 井荻村土地区画整理組合設立
15年(1926年)

豊多摩郡農会長に就任
井荻村から井荻町となる

昭和2年(1927年)

桃井第二小学校~桃井第五小学校の新設を町議会に諮り、議決される
西武鉄道村山線開通に対し、町内に下井草駅、井荻駅、上井草駅の3駅を誘致

3年(1928年) 井荻町長を退任(51歳)
4年(1929年) 府立農芸学校を誘致(現在の東京都立農芸高等学校)
5年(1930年) 善福寺が風致地区に指定され、善福寺風致協会設立総会の会長に就任
善福寺池を水源とする上水道工事に着手
6年(1931年) 東京都農会副会長に就任
7年(1932年) 東京市会議員に当選(55歳)
杉並区誕生
9年(1934年) 東京市会土木委員長を務め、土木事業50箇年計画を樹立
10年(1935年) 井荻町土地区画整理事業終了(58歳)
11年(1936年) 東京府議会副議長就任
12年(1937年)

区画整理事業によってつくられた、区内最古の公園である荻窪公園が開園する

14年(1939年)

青果の販路拡大を目指し、淀橋分場(現在の淀橋市場)開場

18年(1943年) 東京都議会議員に当選(66歳)
20年(1945年) 東京都議会議長第3代に就任
21年(1946年) 東京都議会議長第5代に就任
22年(1947年) 東京都議会議員を引退(70歳)
23年(1948年) バナナの輸入を目的として海外物産貿易会社設立
27年(1952年)

台湾バナナ輸入協会が結成され、相談役に就任
全国農業委員会協議会会長に就任

28年(1953年) 善福寺池畔に銅像建立
50年(1975年) 逝去(98歳)

(年号の出典は『内田秀五郎傳』、『内田秀五郎翁』、『東京農業の今昔』)

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内田秀五郎(前列右から4人目)
(出典:井荻町土地区画整理組合集合写真)

杉並の“基盤”をつくった村長

内田秀五郎の功績

駅の誘致

JR西荻窪駅
JR中央線は大正初期、中野駅と吉祥寺駅の間に荻窪駅しかなかったため、新駅設置に奔走し、429坪の寄付を集めて西荻窪駅の開業に貢献しました(大正11年(1922年))。

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開業当時の西荻窪駅

西武線3駅
西武鉄道村山線(後に新宿線)の整備の際、「井荻町には3駅の設置を」と西武鉄道と交渉。西武側は2駅を主張していましたが、最終的に西武側が納得し、下井草・井荻・上井草の3駅設置を実現しました。

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開業当時の上井草駅(昭和2年(1927年))
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開業当時の下井草駅(昭和2年(1927年))

まちを豊かに

農業への貢献
江戸時代の紀行文には“八丁辺りからは貧農なり”と書かれるほどの土地でしたが、秀五郎が大根を加工することで利益をあげることを指導し「ひねたくあん」を特産物として開発しました。
東京中央市場の分場として淀橋市場の開設に尽力。昭和14年(1939年)淀橋市場が開市しました。

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大根干し(昭和初期)
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淀橋市場(写真は昭和44年当時)

産業への貢献
雇用を創出するため、中島飛行機東京工場の誘致に尽力しました。
明治43年(1910年)秀五郎は28人の組合員で「第一井荻信用購買販売組合」を創設します。その後、全村に拡大した「井荻信用購買販売利用組合」を経て、昭和9年(1934年)井荻信用組合を設立しました。

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中島飛行機 東京工場本館(大正14年(1925年))[左]
井荻信用組合(現西武信用金庫)(昭和9年(1934年))[右]

教育の充実

学校建設
人口増加に伴う児童数増加を見越し、昭和2年(1927年)現在の桃井第二~第五小学校の増設を町議会で議決し、建設に着手しました。
この他に教育会の設置や、村の財政収入の6割を投じた学用品の共同購入・貸与にも取り組みました。

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建設当初の桃井第五小学校(昭和9年(1934年))

都立農芸高等学校の誘致
当時中野町にあった「府立農芸学校」を府中の農蚕学校と合併させて府中に移転する、という案に秀五郎は反対。郡内での農業教育の必要性を府会に説き、昭和3年に井荻町(現在の杉並区今川)に誘致しました。

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開設当初の都立農芸高校(昭和3年(1928年))

 

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