51 与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧居跡 【その他】(南荻窪4丁目3番22号)

 

ページ番号1008012  更新日 令和6年7月31日 印刷 

現在、公園となっているこの場所には、明治・大正・昭和にわたり、多くの近代詩歌を残した与謝野寛・晶子夫婦が永住の居として、その晩年を過ごした邸宅がありました。
関東大震災により、晶子は文化学院(現・千代田区神田駿河台)に預けてあった『新新訳源氏物語』の原稿を焼失しました。この体験を経て夫婦は震災の被害の少なかった郊外に移ることとし、当時井荻といわれたこの地に土地を得て、昭和2年(1927年)、麹町区富士見町(現・千代田区富士見)から引越してきました。敷地には、大正期に建てられた采花荘(さいかそう)、秩父連山や富士山、箱根山脈を眺められることにちなむ遙青書屋(ようせいしょおく)の2 棟の邸宅のほか、弟子から贈られ、茶室や書斎として使用された冬柏亭(とうはくてい)がありました。夫婦は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や植木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を与謝野夫妻は次のように詠んでいます。

大いなる炉の間のごとく武蔵野の冬あたたかに暮るる一日 寛
井荻村一人歩みて蓬生に断たるる路の夕月夜かな 晶子

夫妻は、この家で歌会を催し、『日本古典全集』の編纂や歌誌「冬柏」の編集も行いました。各地へ旅行して歌を詠み、講演も行っていましたが、昭和10年(1935年)3月26日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子や子供達、多くの弟子に看取られながら62年の生涯を閉じました。
寛亡きあとの昭和11年~12年(1936年~1937年)頃、晶子は寛が生前に頼まれていた桃井第二小学校校歌の作詞を手掛けました。その関係資料は「与謝野晶子自筆杉並区立桃井第二小学校校歌・関係資料」として杉並区有形文化財に指定されています。その後も、11人の子女の成長を見守りながら各地を旅し、また念願の『新新訳源氏物語』の完成〔昭和14年(1939年)〕に心血を注ぎました。
昭和17年(1942年)5月29日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地で63年の生涯を終えました。

 

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