62 玉川上水 【川】(久我山2丁目11番4号)

 

ページ番号1069277  更新日 令和3年10月16日 印刷 

玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、承応2年(1653年)、庄右衛門(しょうえもん)・清右衛門(せいえもん)兄弟(後の玉川兄弟)が江戸幕府から下命され開削した上水路です。
西多摩郡羽村(羽村市)から四谷大木戸(新宿区内藤町)まで約43キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって江戸市内に給水しました。杉並区内の流れは、牟礼橋(むればし)から代田橋に至る約6キロメートルです。工事はわずか1年有余というおどろくべき早さで完成しました。江戸市内への都市生活用水の供給という本来の目的を果たす以外に、水の乏しかった武蔵野台地の村々に分水することで、飲料水・灌漑(かんがい)用水・水車の動力として新田開発をうながし、武蔵野台地の原野を畑作地帯へと変化させました。
玉川上水の分水口の数は、『上水記』によると、最古の野火止(のびどめ)用水をはじめ最盛期には総数33カ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢村分水の取水口がありました。この説明板(注)の前方に見えるのが烏山村分水口跡で、上北沢村分水口跡(現在地より下流へ約40メートル)とともに貴重な遺構です。このうち上北沢村分水には途中に三左衛門(さんざえもん)水車が設置され、近郷近在の人々に親しまれ、「車堀(くるまぼり)」と呼ばれました。
江戸の人々の暮らしを支えた玉川上水は、明治31年(1898年)、東京に近代水道が完成したため、明治34年(1901年)に廃止されましたが、水路は大部分がそのまま淀橋浄水場への導水路として使用されていました。新宿副都心計画にともない、昭和40年(1965年)に淀橋浄水場が廃止されると、流路はさらに短縮され、現在では小平監視所(小平市中島町)から上流域のみを水道導水路とし、中流域は東京都の清流復活事業により、水再生センターの高度処理水が導水されています。
玉川上水は、平成15年(2003年)8月、江戸・東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、国の史跡に指定されました。
説明板の右手にある「岩崎橋」は、明治の中頃まで通称「庄ちゃん橋」と呼ばれ、農作業用に使用されていました。その後「樋口橋」と名を変えますが、昭和14年(1939年)、現在の烏山に工場を建設した「岩崎通信機株式会社」の名をとって、現在に至っています。

(注)説明板は、岩崎橋の北側に設置しています。

写真1
上北沢村分水口跡
写真2
烏山村分水口跡
案内標示板の画像
案内標示板

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